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クロエ財布sam編集

 口を守ること瓶の如し、といふのは、瓶が傾けば忽ち流れ出る水を、口をとざして流さないといふ意味であらう。鼻孔の下にあるこのなんでもない口が、ことにかかづらつて動かせばまた禍の門となる。第三の句の木※[#「木+突」]の如し、といふのは私には解しかねる。恐らく二句の動著に対して直下放教といつたのであらうか。かれこれと思ひ惑はずに、青天白日を怒雷の走るが如く大声一番せよ、といふ意味であらうか。これはもう一つの遺偈にある「力囲」即ち※[#「囗<力」]に通ずるものである。  利休の白日青天の句は、千宗守氏によれば、「悟後達観の名言として禅家の間に重んぜられてゐる」さうである。なるほどさういふ節もある。然し、何故利休が末後の一句にこの句を選んだか。「守[#レ]口如[#レ]瓶」とか、禍門といふ連想がなかつたかどうか。  石田三成にふとして傾くべきでない瓶を傾けてしまつたことの禍があつた、とみれないかどうか。津田宗及が持前の外交で石田三成に取入つてゐたのに、利休はそれを敢てしなかつたといふことが伝へられてゐる。「内々の事は宗易、公儀は秀長」といふ勢力の一方の秀長が既になく、利休一人なほ傲然として内々の事に関与してゐたのでは、三成と不仲になるのは当然である。『堺市史』はその第二巻で利休の死因にふれ、「利休も持前の自負豪放が祟つて、不用意の間に秀吉の怒を招いた気味もないではなかつたらうが、秀吉の寵臣として日夜其左右に侍し、迎合に巧みであつた石田三成の魔手の動いた事を見遁すことはできぬ」といつてゐる(五四四頁)。  では、利休はどのやうなことを三成にしやべつたか。私は千宗守のいふやうに、天下の大事にわたる機密を入れた瓶の口を開いたとは思はない。恐らく利休の娘お吟にわたることではなかつたか。或ひはお吟がかういつてゐた、といふやうなことを、ふとしたはずみに三成にしやべつたことが、禍の門をなしたのではないか。これ以上は海音寺氏の小説や、また今東光氏の『お吟さま』にゆづるが、お吟事件に三成が関与してゐたこと、またキリシタンの高山右近が、これに関係があつたことは考へられる。利休の死んだ翌月、三成の手が利休の妻女をとらへ、きびしい拷問にかけて死にいたらしめたのは、三成と利休の娘との間に、三成及び秀吉を怒らせるやうな事件があつたに違ひない。若し利休自身の罪によつてその一統が連坐しなければならないとすれば、利休の子、道安や少庵こそ拷問にかけらるべきであるのに、一人は忠興、一人は氏郷のもとにひきとられ、やがて少庵による跡目復興が許されてゐるのである。千家再興を斡旋したのは、家康、利家であつた。  利休が死の四日前、即ち天正十九年二月二十五日といふ日附で書いてゐるもうひとつの偈は普通には次のやうに書かれてゐる。    人生七十  力囲希咄    吾這宝剣  祖仏共殺    提ル我得具足の一ッ太刀今此時ぞ天に抛 「提ル」の方は読み易いが、「人生七十」の方は読み難い。利休自筆のものは    人世七十力※[#「囗<力」]希    咄吾這宝剣祖仏    共殺 となつてゐる由である。  問題は「力囲希」のところで、一般には利休は、力囲と書くべきところを、力※[#「囗<力」]希と書いてしまつたらう、といふことで、普通には力囲希となつたわけである。力囲は、元来は※[#「囗<力」]《カ》と書くべき一字であるが、力と囗を分ち、囗を囲または圍に書いたといはれる。さうすると、意は※[#「囗<力」]希といふことになる。※[#「囗<力」]はもともと禅家の間にはよく使はれる語で、※[#「囗<力」]地一声などと出てくる。思はず発する一声、一喝であるやうである。「蓋し師を尋ね、道を訪ふの人、参究三二十年にして忽然心花発現し、此時を会得し、覚えず※[#「囗<力」]地一声」といふやうな使ひ方がある由である。  近重物安氏によれば(千宗守氏前掲書に、近重氏の『力囗希』といふ文章が転載されてゐる)、蜀の成都に幹利休といふ禅家がゐて、それが次の偈を残してゐるといふ。    人生七十力囗希 肉痩骨枯気未微
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